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2013/07/30

セミナーであったり、本読んでくださった方から質問がよくあるので、
今日は、なぜ、「6つの発想のロジック」を研究したのか、
発想の筋道を分析しようと思ったのか、書きたいと思います。

結論から言うと、それは僕がかつて「クリエイティブ周回遅れ」だったことに起因します。

この話は、ストプラ職→制作職と異動した僕のこれまでの思考の変遷

①ストラテジー思考の習得(learn)
②ストラテジー思考の一時消去(de-learn)
③クリエイティブ思考の習得(learn)
④両思考の融合と再発見(hyper-learn)

という歴史と重なりあいます。

僕はもともと、漠然と世の中動かす「作戦をつくりたいなー」と思って、それができそうなところを探して
1997年、博報堂のマーケティング局(現ストラテジックプランニング局)に配属されました。

戦略コンサル会社と迷ったんだけど、それでも広告会社に入った。
それは広告会社は、理屈っぽいコンサルと違い、論理と感性の両方を使って、
世の中に影響を与えていると感じたからだったのですが。入ってみて、実際、それはそうだと実感しました。

マーケとして、業界リードするトップクリエイターの方々が担当するような
業務に関わり、会議室の末席に参加する毎日。
そこで一番驚いたのは、クリエイターの出すアイデアの面白さもさることながら、
その思考のプロセスも、プレゼンも、驚くほどロジカルであったことでした。

何もわかっていなかった入社当時の僕。
広告の「論理」はマーケティングプランナーが担うもの、
クリエイターと呼ばれる人は、もともと、なんか変なこと、面白いことを思いつくのが得意な、
感覚的な人、「向こう側の人」だと思っていました。
ところが、実際はそんなことはない。
一流のクリエイティブディレクターは恐ろしくロジカルで説得力がある。
それでいてワクワクする論理を語る。

ただ、そのとき「違和感」というか、疑問を持ったのは、
自分がマーケとして、調査データなどを用いながら使っている「論理」と、
クリエイターたちが使っている「論理」がなにか違うという感覚でした。

入社7年目、戦略とクリエイティブの両方をまたいだ仕事をしたいと思い
(ここの想いは書くと長いのでまた別の機会に)
制作局と複属となり、両方を仕事をやらせてもらい、2年後に制作に転属のカタチに。

最初、制作に行って思い知らされたのが、「自分の発想力の貧困さ」。
マーケの思考が得意だった分、それが染みついていて、
面白いことの思いつかなさがはなはだしい。毎日、恥ずかしい。

それでも、「まずは、数をだせ!」と言われて、やみくもにやり続けていく中で次第に
マーケティングとクリエイティブとで異なる「考える筋道」を使い分けられる感覚が
生まれてきました。
それがこの本で言う、街の思考、森の思考の原型だったと思います。

さらにもっと言うと、マーケティングの仕事をしているときの思考にも
なにかを証明したり、ヌケもれなく論理をつめていくような思考の時と、
データから仮説を生みだしたり、お客さんの気持ちを発見する思考と二つの思考が
あることが自分の中で明確に分かれてきました。

クリエイティブとして思考する時も、自由に発想を飛ばす時と
それをキャンペーンや具体物に落とし込むとき、細かくコピーに落とし込むときなどに使う
緻密な論理の2つの思考がやっぱり違うなと感じるようになりました。

ヌケモレなく論理を構築し、説得する時の、クリアな道筋の思考。
これまでにない何かを生みだす時の、勇気をもってけもの道を進むような思考。
その思考を自分の中で飼いならせるようになった時、
これはもっときちんと形にして、世の中に出すのが、
ストラテジーとクリエイティブの両方を経験させてもらった僕に与えられた
ミッションなんじゃないかと、感じるようになったわけです。

しかもそれは、ストプラ職の思考と、制作職の思考というような職種で分けられる思考ではなく
いずれの職種においても使い分けが求められる

・何かを整理、確認、検証する思考
・何かを創造、発見、洞察する思考

の違いとして体系化したいと思ったわけです。
それも、その方法を僕個人の経験則や個人的やり方としてでなく
「ゼロからイチを生みだす」ため人類が営々と取り組んできた研究の積み重ねの上に
きちんとこれを紹介したいと思い、それから暇を見つけては
古今東西の論理学、発想法の本を読み漁り、数十冊の本の書き抜きを繰り返してきました。

そして今回、ちょっと別のきっかけで、木村さんと本を書こうという話になり
議論を重ねて熟成をしたのがこの第五章です。

そもそも木村さんも僕も同じようにストラテジーからクリエイティブに仕事のウイングを広げてきたので
こういったことへの問題意識は共有できることは、わかっていました。
このテーマで深い議論をして、アウフヘーベンを興し、しかもそれをわかりやすく解き明かすには
絶対、木村さんと一緒にやるのが一番と思っていました。

「街」と「森」の話は、以前から木村さんがいろんなところで講演していたテーマでした。
そこに僕が昔から持っていた問題意識であるこのテーマ、
「われわれが教科書で習うロジック(=つまり、演繹法と帰納法)とは
異なる発想のロジックが存在する!、そして、それは自分の経験からしても、
古今東西の論理学や何十モノの発想技法から導き出してもその発想の論理は5つに
分類できるはず!」

という研究結果が重なりあい、そこからこのテーマの議論を深めていきました。
議論の結果、森の思考の6分類として掲載することにし、それをわかりやすく説明するには
ことに、心を砕いて今の形になりました。

今回、木村さんがカンヌ広告祭(Cannes Lions International Festival of Creativity)で、
この発想の論理をCreative Alchemyとしてスピーチし世界中のクリエイターから絶賛されたと聞き、
自分たちの考えたことが世界で共感を得られたことをうれしく感じました。

振り返ると、途中からクリエイティブ局に異動し、今でもストラテジーとクリエイティブを
行き来する自分は「よそ者」であり、かつ後天的にクリエイティブな発想を身に着けざるを得ない
”周回遅れ”であったことが、発想の思考をなんとか解き明かしたいと思った
いちばんの動機だったと思います。
クリエイティブ・ネイティブだったら、苦も無くアイデアが浮かぶので、解き明かそうと思わないはず。

僕はいわゆるクリエイターの人とちょっと得意領域がずれていて、
表現開発でのブレイクスルーもさることながら、
その手前の商品開発とか、戦略立案、プランニング初期の視点づくりのステージでの
ブレイクスルーが好きです。得意です。
課題が難しくなればなるほど、前手での思考の突破がないと、
表現ステージだけでは突破しきれないことが多いと思うからです。

この仕事を十数年をやってきて、いつかは世の中に示したいと思っているテーマがいくつかあり、
その中のひとつこのたび書籍という形で発表できてうれしいのですが、
こんな本を書いていながらも、現業ではいつまでたっても、
これぞというブレイクスルーができたりできなかったりの毎日。

森のけもの道を行くのも、街と森を行き来するのも楽ではないなあと思っています。
(昔よりは、ちょこっとだけうまくなったけどね。)

2013/07/22

「女にも野心がある。 ただ、 女はそれを夢と呼ぶのです。」
(東京経済大学の広告コピー)

人気女流作家。(女流って死語か?)
飛ぶ鳥を落とす勢いのIT企業を創業した女性起業家。
2人の、まさにそんな生き様を見せてくれる話題の本。

同時に読むと、この2冊の通奏低音にある
そのすがすがしい野心(あるいは夢、あるいは向上心)をこれでもかと浴びせられて
読むと元気が出て、でもそのあと、自分のがんばりの足りなさも
思い知らせれちょっと落ちる、そんな読書体験をするのではないかと思います。

僕自身、お二人の力強い生き方と対比して
いかに自分が馬齢を重ねてしまったか。若干めげました。(笑)

共通点もある一方で2人の分野、考え方においては異なる点も多い。
「野心のすすめ」は、コピーライターを経て直木賞作家となり、ヒット作を連発し
続けてきた林真理子さんの自分史であり、若い世代へのエールを書き綴ったもの。
「女の生き方」にも多くの紙面を割いており、仕事は絶対続けるべきで、でも、結婚はすべき、子供は産むべきという考え。個に向き合って思考を深めて作家ならではの視座。

「不格好経営」はDeNAの創業者、マッキンゼー出身、南場智子さんの起業から現在までのいわば創業奮闘記。仕事をしていく上で、男性女性を意識したことは全くないと言い、企業、組織をどう成長していくかという視点が書かれている。

2人とも、この著書で、自らの失敗、恥ずかしい経験をたくさん披露している。
その悪戦苦闘ぶりにわくわくするし、共感してしまうのだが、
「私こんな失敗したのだけど、いろんな人に助けてもらってここまできました。ウフ。」
みたいな一昔前の女性的なカマトト話法でなく、自信満々に堂々と語り、前進している点が
女性成功者の描く自分史として、新鮮な印象を持つ。
これがいまの時代なんだと。

物事を皮肉的に見る人は、
いま林真理子さんが、なぜ「野心」という言葉=槍で、自らを世間を突き刺そうとしているか、
いま南場さんがこの復帰のタイミング、社会的役割としてもビジネス的にも次のDeNAをつくるタイミングで、この本を出すのか(各方面への配慮ある「書き方」も含め)その意味を裏読みするのだろうが、そういった「戦略」なんてことは、僕は些細なことと思う。

その「野心のすがしがしさ」をストレートにレスペクトしたい。

社会の空気が変わり始めた。
さあ「すがすがしい野心」の時代だ。

2013/07/03

「華麗なるギャツビー」を観てきた。

ギャツビー

原作好きとしては、映像化されるだけでうれしい。
映像はゴージャスで、パーティシーンは愉しく美しく、まさにあの作品の空気を伝えてくれている。音楽もよかった。
まだ観てない人に「どう?」と聞かれれば、「観に行った方がいいよ!」と言うだろう。

でも、やっぱりちょっと残る違和感も。
(これって原作があるものにはありがちですが。以下、ネタバレ注意)

僕が本を読んだ時の記憶が正しいとすれば、
この物語は、1920年代の好況に沸くアメリカの豪華絢爛たる虚飾の世界、莫大な財産を持つ謎の男、ギャツビーの完璧性と
コントラストをなす彼の内面の空虚とか、魂が抱える哀しみ、みたいなものが偉大な文学性の源泉となっていると思うのだけど、
この映画では描ききれてないような気がした。

その理由は3点。

・純粋な愛を貫く男の物語という描き方でいいのか?
ハリウッド的な主人公像に当てはめ過ぎじゃないか。「純粋な愛を貫く男」と、「それをさまたげる状況」が
生みだす悲劇、というような描き方に感じたけど、この作品の意味はそんな単純なものではないのでは?

・つまり、レオさまでよかったのか?
確かに、ディカプリオは、ギャツビーとその時代の持つ「ゴージャスな」空気をつくれる数少ない役者なのかかしれない。
けど、けど、うーんやっぱり、人物の掘り下げが、、、陰影が、、、。

・このライティングなのか?
3Dと2Dがあって、SFではないので2Dでいいやと思ってみたんだけど、
3Dを前提にしてつくっているからか、照明バキバキで、映像にニュアンスが感じられない。
表情の陰影も、心の奥行きも、もっと描いて欲しかったなと。
ハリウッド的事情とか、パーティシーンを3Dでゴージャスにという意図があって、3Dという選択だったのだろうけど、
僕は賛成ではないなあ。

僕が原作を読んだのは、たしか高校時代と、30歳頃の2回。
もしかしたら、僕の読書記憶が間違っているのかもしれない。
読み返すと「あれ、こんな作品だったっけ?」ってこと、よくあるから。
なので、これを機会にもう一回読んでみようと思う。

繰り返しになるけど、「どう?」と聞かれたら、「観に行った方がいいよ!」って答えたくなる
映画だったことは間違いないです。
あくまで、原作好きの戯言としてご理解を。

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